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静岡の大地(24)伊豆半島南端から真鶴半島へ 2023年11月21日


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 2023年10月31日から3日間、伊豆半島の南端まで行って、帰りは真鶴半島の端に立ち寄って静岡へ帰った。その時の記録である。静岡市内から宮原亜砂美、尾池葉子、私の3名が高速道路で三島へ向かい、三島駅で東京方面から熱海経由で着いた柏本理江(きょんちゃん)、伊澤麗華、有泉香代の3名と合流して函南へ向かった。

 北伊豆地震は、1930年(昭和5年)11月26日早朝に発生したマグニチュード7.3の地震である。三島市で震度6であった。震度6は、当時の震度階の最大値であった。早朝で火災は少なかったが、死者と行方不明者272名の被害があった。この地震を起こした活断層は丹那断層である。私たちは丹那トンネルの真上の丹那盆地を訪ねた。三島へ東から来た3人がさっき通り抜けたトンネルが中でS字型に曲がっている。

 丹那トンネルは建設開始が1918年(大正7年)、完成が1933年(昭和8年)で、鉄道が開通したのは1934年(昭和9年)12月1日であった。全長7804mの複線である。その後、新丹那トンネルの工事が1941年に始まり、中断の後1959年に再開されて1964年に完成した。このトンネルの真上には丹那盆地があり、地下に大量の地下水を溜めていて、丹那トンネルの掘削は大量の湧水との戦いであったと記録されている。トンネルの先端が断層に達した際、トンネル全体が水で溢れるほどの湧水事故が発生した。多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いた。水抜き坑の全長は本トンネルの二倍に達し、排水量は六億立方メートルに達した。箱根芦ノ湖の貯水量の三倍とされている。

 トンネルの真上の丹那盆地では、トンネル工事の進捗とともに水不足となり、灌漑用水が確保できず飢饉になった。丹那盆地では、稲作と清水を利用した山葵栽培が、かつては行われており、副業で酪農も行っていた。現在も丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、昔の豊富な湧水は丹那盆地から失われた。丹那盆地の水田と山葵田は消滅し、酪農が主要産業となった。

 1930年、西から掘っていたトンネルが、明瞭な断層に到達し、断層を突破するため、数本の水抜き坑が掘削されていた時に地震が発生した。ある水抜き坑で切羽全体が横にずれ、坑道一杯にピカピカの断層鏡面が現れた。吉村昭『闇を裂く道』にその時の状況が詳しい。断層が動いて東側が西側に対して、北へ2mほど移動したため、直線で設置する予定の東海道線のルートがS字型に修正されることとなった。

 地震後の調査で見つかった地表地震断層は長さ約35kmあり、上下に2.4m、水平方向に2.7mの左ずれが確認された。丹那断層は国の天然記念物に指定されており、現在でも二か所で保存され、観察することができる。その後、東京大学地震研究所などによる1985年までの発掘調査で、丹那断層は過去6000年から7000年の間に小さい活動も含めて9回の断層活動があったことが確認された。一方、歴史資料によると、841年前半(承和8年)に伊豆でマグニチュード7の地震があり、これが丹那断層の大規模な活動であると見られている。掘削調査の分析からは室町時代前後にも1回の大地震があった可能性が指摘されており、いずれにしても、日本の他の活断層に比べるとずいぶん短期間に次の大地震が起こったことになる。

 丹那断層の大地震の発生間隔は、日本の活断層の中では短い方であるが、それでも1930年の地震は早すぎるという疑問がある。丹那トンネルの掘削により大量の水抜きで地下水に異常を生じ、それが引き金になって大地震を早めに引き起こしたと考えられる。地下の水の動きが地震発生の引き金になった多くの例が知られている。同じような仕組みで、大量の地下水の移動が大地震発生の引き金作用となりうるという仮説のもとに、北伊豆地震のことをさまざまな視点から見直してみることが重要ではないだろうか。

 この地震の前兆現象は、前震だけではなく各地で発光現象や地鳴りなど、宏観異常現象があった。本震前日の25日17時ごろから本震発生後の26日午前5時ごろまでには、静岡県南部を中心に発光現象があり、光はオーロラ状、色は青という報告が多かった。地震の前兆現象の研究は重要であるが、最近は研究者が少ない。

伊豆半島ユネスコ世界ジオパークの丹那断層の説明板

丹那断層公園にある地表地震断層の左ずれ

丹那断層公園から北を見る。活断層の地形が明瞭な鞍部となっている。


 丹那盆地の遺跡はこの公園の他に、重要なポイントである火雷(からい)神社がある。神社の石段と鳥居の間に約1mの横ずれが生じた。神社境内に生じたずれは町の天然記念物として保存されており、観察することができる。また、椨(たぶのき)、おがたまのき、楓、檜などからなる神社の森も町の天然記念物に指定されていて、とりわけ静岡県内第2位の巨木ともいわれる、椨(たぶのき)は見事である。

火雷神社(伊豆半島ジオパークHPより)。地震で折れた鳥居の石が残っており、昔の石段とのずれが分かる。


 次の視察現場は南箱根の養蜂場である。養蜂家の玉井理さんたちが丹那断層公園に来て道案内してくれた。玉井さんご夫妻は田方郡函南町で南箱根の生蜂蜜を生産する。蜂蜜やその製品を販売するブランド名「abeille」はフランス語の「蜜蜂」である。伊豆高原への入り口にあたる標高300~600mの地域には数多くの種類の草花や樹木花が生い茂っている。富士山を眺める土地で蜜蜂が活動して蜜を蓄える。玉井さんは「毎日蜜蜂たちが富士山に向かって飛び立つ姿がとても可愛いです。そんな蜜蜂が季節に咲く数々の花から集めた香り豊かな蜂蜜を皆様に是非味わっていただきたいのです」という。非加熱の生蜂蜜を届けたいというのが玉井さんの理念である。

玉井養蜂場を見学する私(左)と玉井さんがとらえた雀蜂(右)

 養蜂用防護服を借りて巣箱の近くで見学している最中にも大きな雀蜂が来て、玉井さんが網で捕らえた雀蜂を見せてくれた。網で捕らえた雀蜂は100匹を超える数であった。日本蜜蜂は雀蜂に対して「熱殺蜂球」で対抗することが知られている。胸の筋肉を震わせて発熱し、集団で雀蜂を蒸し殺す。 蜜蜂が発熱するのは蜂蜜の水分を飛ばして濃縮するための機能で、雀蜂より高温に耐える性質を日本蜜蜂は持っている。西洋蜜蜂にそのような技はないそうだ。また、日本蜜蜂には逃亡癖があっていなくなるが、西洋蜜蜂は家畜として改良されてきたという違いがある。

 玉井さんによると初夏の蜂蜜がまろやかでいいという。別荘地の山の上のカフェダイニング・ワカバで昼食を取りながら、さまざまなことを教えてもらった。コーヒーに玉井さんご持参の蜂蜜を入れてみると、まことにまろやかな香りが広がって美味しかった。このカフェからは愛鷹山が目の前に見え、その右肩に富士山が少しだけ現れていた。その後で立ち寄った道の駅にはabeilleの製品もたくさんあり、丹那盆地の乳製品も豊富にあった。飲むヨーグルトを買ったが、少し酸味があり美味しかった。

 次に伊豆半島ジオパークの「ジオリア」を訪問した。日本列島の生い立ちから、本州に伊豆半島が衝突する歴史が分かる。そしてその痕跡をたどるジオパークの要所を知ることができる。たいへん展示が分かりやすいと、皆さんに好評であった。ここには一般社団法人美しい伊豆創造センターがあり、そのジオパーク推進部主幹の石田晃一さん、専任研究員の遠藤大介さんたちにお目にかかることができた。修善寺の詳しい絵地図も置いてあった。

 ジオリアから修善寺を通り抜けて真西に行くと達磨山の展望台がある。この日は富士山はよく見えなかったが、沼津の街は見えた。九十九折りの道が続く。宇久須から海岸へ出た所が黄金崎公園で、遊歩道と展望台があり、海に沈む夕日、富士山、そして馬の顔の奇岩の景色が楽しめる場所であるが、すでに日が暮れていたのでそのまま通過して、18時前に松崎町の御宿しんしまに到着した。
 御宿しんしまは、入江長八の鏝絵の残る宿として知られる、佐野勇人さん経営の宿である。佐野さんはジオパークのガイドでもあり、伊豆半島の隅々まで知っており、伊豆半島の過去も知っている。ジオパークは土地に住む人々が、その土地をどう利用してきたかを楽しむ場所である。地質や地形だけではジオパークは成立しない。漆喰の鏝絵で有名な伊豆の長八は、松崎の風土が生み出した芸術家である。強風による火事を防ぐために「なまこ壁」が造られ、そこから鏝絵の芸術が生まれた。佐野さんはこの人の営みを世界の人に紹介する。また、佐野さんは化石にも詳しい。マツザキサザエが蓋付きで発見されたのは大きなニュースであった。

大型熱帯サザエの蓋

 御宿しんしまの夕食では、まず「くろめ」という小さな貝の味噌汁の出汁を楽しみ、伊勢海老の刺身を自分で山葵を摺りながらいただき、続いて鮑、鹿肉を、そして駝鳥肉は庭の無花果(いちじく)と柿とともに味わい、うつぼや明日葉の天ぷらと、すべて近くで手に入れた食材を堪能した。デザートには地元の名物、大島桜の葉をたっぷり用いた「桜葉餅」が出た。「薬草園歳時記(26)牧野富太郎とワカキノサクラ(2023年4月)」で紹介した桜葉餅である。

 佐野勇人さんは静岡県立大学「地域みらいづくりフェーロー」で、本学の学生のフィールドワークではガイドをお願いし、ときどき大学に来て講義もしていただいている。この日も夕食の後、20時から22時まで、夜の街歩きを楽しく案内してもらった。松崎の街には歴史があり、見応えのある場所が多い。潮汐のことを学ぶために「13」の文字を入れた時計台もある。また秋祭の準備で太鼓の練習が聞こえてきた。なまこ壁の塀の街に、楽しい2時間があっという間に過ぎた。長八美術館は明日明るいときにもう一度見たいと皆さんの声が聞こえた。依田勉三とその一族の活躍も歴史を残している。汐入川の向こうでも太鼓の音が聞こえる。松崎出身の依田勉三と北海道帯広の関係は「静岡の大地(15)伊豆の松崎町と帯広市の歴史(2022年7月27日)」に詳しく紹介した。

昨夜の伊勢海老の頭

翌11月1日、御宿しんしまの朝食は、昨夜の伊勢海老の頭の味噌汁から始まる豪華版であった。御宿しんしまと川を隔てた場所にある松崎町役場を訪れ、松崎町長深澤準弥さんを表敬訪問して30分ほど話がはずんだ。松崎町役場の広報は充実しており、町の様子が、「今日のまつざき」に紹介されている。

前列左から筆者、深澤町長、柏本理江(きょん)、後列左から尾池葉子、伊澤麗華、有泉香代、佐野勇人、宮原亜砂美。町長の持っているのはきょんちゃんのデザインした、ばんえい競馬の馬、筆者の持っているは同じく帯広空港のシンボル「空(くう)」。

 この日のきょんちゃんの重要な役目は、とかち観光大使として、帯広市長米澤則寿さん、鹿追町長喜井知己さん、中札内村長森田匡彦さん、それぞれからの深澤町長への「よろしく」というメッセージを伝えることであった。

 20世紀の最後の20年間に、私は静岡県教育委員会と連携して静岡県下の高等学校で地震予知の観測を指導していた。モデル校の一つに松崎高等学校があった。学校を訪問すると帰りに校長先生が立派な伊勢海老をお土産に持たせてくれたのがとても嬉しかったと町長に話した。このときの20年間のモデル校での観測は、今でいうシチズンサイエンスの草分けだったと思っている。このときに成果は教育委員会から年報として出版されている。


 役場から依田勉三の屋敷跡へ向かった。一帯に依田家の名残が残っており、歴史を学ぶことができる。近くに大島桜の畑があった。背の低い木には若葉を収穫しやすくした工夫が見られる。5月頃に若葉を摘んで塩漬けにして保存する。桑畑の跡を利用して大島桜が名物となった。依田家の跡はしばらくホテルとして使われていたので、その名残の部屋の居心地がいい。中庭も手入れが行き届いている。

依田勉三(左)と依田家の中庭



昼食のうなぎ

 松崎町から南へ海岸沿いに走り、海岸からの景色を見た後、内陸へ向かう。賀茂郡南伊豆町湊にある「かくれうなぎ誕生の店川八」で昼食をとる。「かくれうなぎ」という呼び名は漫画家のはらたいらが名付けた。はらたいらは高知県香美市の出身で私が幼少の頃に住んだ地域である。静岡県内の旅行の楽しみの一つが鰻の味比べである。美味しい鰻があちらこちらにある。今回の旅でもネットで調べて私が見つけた。
昼食後に道の駅に立ち寄ると、短いバナナ、バナナの花、青いパパイヤ、熟れたパパイヤなどがあり、南国であることが分かる。土佐で「ちゃらて」と呼ぶ隼人瓜もある。

 道の駅を出発し、訪れたのは子浦三十三観音である。「遊歩道は急な登り道になっています。三十三観音付近は落石にもご注意ください」とジオパークの案内にあるが、手摺りも鎖も無い急な石段の、しかも手入れが全くされていない階段で、かなり上まで続く様子なので、帰り道が危険だと判断して私は途中で引き返し、若者たちの写真で見ることにした。子浦港から日和山遊歩道を5分程度歩くと海底火山の噴出物が侵食でえぐられてできた崖のくぼ地に、「三十三観音」と呼ばれる石仏群が安置されているという。その背後の地層の中に火山噴出物が急激に冷やされた際にできる特徴のある岩が入っており、海底火山の噴火で作られた地層であることがわかるという。遊歩道の魚付林として保護されてきたウバメガシの林も見どころであるという。ここでいう「遊歩道」とは、とても危険で、途中ですべると大怪我をする急な坂のことであり、「遊歩」でも「道」でもない。ジオパークを名乗る以上、手摺りや鎖を整備し、石段をきれいに補強することが必須である。

 次に訪れたのは南伊豆町の中木である。1974年伊豆半島沖地震から49年、今年も慰霊祭が執り行われ、住民や遺族ら約50人が参列した。この地震で中木地区では27人が犠牲となった。地震断層が石廊崎から北西方向へ延びる長さ約5.5kmに出現し、石廊崎断層と呼ばれている。震源断層面の破壊過程は約11秒間であった。地表地震断層は西北西-東南東の走向で北落ちの右横ずれ断層であった。横ずれ量30cm、縦ずれ量15cm である。平行して長さ約1kmの石廊崎南断層、石廊崎北断層も出現した。この地震の後、河津地震(1976年)、伊豆大島近海地震(1978年)、伊豆諸島北部群発地震(2000年)、伊豆半島東方沖地震(2006年)と、伊豆半島周辺の地震活動が続いた。

中木の忠霊碑(左)と中木地区にある柱状節理の見られる岩壁


中木にあるジオパークの看板


伊豆半島の活断層(小山真人による)と伊豆半島周辺の地質(シームレス地質図)


左:伊豆半島南端の石廊崎断層のずれを空中写真で見ることができる(国土地理院による)。
右:地震断層の右ずれの現場(地質調査所による)。

 また下賀茂にもどり、上賀茂から下田を経由して北上した。伊豆半島にも多くの活断層があり、ときどきそれらが活動する。静岡大学の小山真人さんのウェブサイトから活断層の分布図を引用する。


上賀茂断層の地形

上賀茂断層のV字型地形

 地形図の南伊豆町とある「南」の地の上に日野のT字型の交差点があり、そこからほぼ東南東方向に谷筋が海岸まで真っ直ぐに走っている(写真)。このように上賀茂断層は地形図をよく見ると地形に反映されている。国道136号線が日野の交差点で直角に曲がる。西へ曲がると左側、つまり国道の南側に菜の花畑があり、看板には「元気な百姓達の菜の花畑」と書いてある。畑の横にバス停がある。そのあたりからほぼ東に向いて地形を撮してみた。V字型の谷地形が見えて、向こうが見通せるようになっており、たぶんこのラインが上賀茂断層の破砕帯が浸食されて低くなっているのであろうと思われる。横ずれの活断層は直線状の谷地形を形成する。

 下田から北へ行くと白浜海岸があり、その北にある尾ヶ崎ウイングから伊豆諸島の火山列が見える。伊豆大島が左の端にあり、そこから多くの島々が南へ並んでいる様子が壮観であり、それらの名前がわかる看板が立っている。この海岸から人びとは火山の噴火を見たに違いない。最近では、伊豆大島が1990年に、三宅島が2013年に噴火するのが見えたであろう。さらに南に多くの火山島が続く。明神礁では1970年に、伊豆鳥島は2002年に、西之島は今年、硫黄島は昨年に、それぞれ噴火した。硫黄島ではこれを書いている時また噴火している。

尾ヶ崎の看板


 さらに北へ行くと河津である。川岸の河津桜で知られている。1975年 8 月頃から伊豆半島北東部で微小地震が群発し始め、次第に活動範囲が拡がり、半島東部の各地で小規模な地震活動が続いていた。この活動とこの地域一帯に見出された異常隆起との関連が注目されていたが、1976 年8月18日にM(マグニチュード)5.4 の地震が隆起域の南部の河津附近に発生し、若干の被害を生じた。これが1976年の河津地震である。

 1978年(昭和53年)1月14日12時24分39秒、伊豆大島西岸沖(北緯34度46分、東経139度15分)深さ約15kmを震源として発生したマグニチュード7.0(Mw6.6 - 6.8)の地震があり、気象庁はこの地震を「1978年伊豆大島近海の地震」と命名した。「伊豆大島近海地震」と呼ばれることもある。伊豆大島と神奈川県横浜市で震度5を観測したが、震源域が陸に及んでいたため、賀茂郡東伊豆町では、震度6相当の揺れであった。被害は伊豆大島よりも伊豆半島東部に集中した。崖崩れなどにより、多数の死者を出した。また、天城湯ヶ島町(現伊豆市)では持越鉱山の鉱滓ダムが決壊、猛毒のシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)が狩野川を経て駿河湾へと流れ込み、魚貝類に多大な被害を与えた。多重震源の地震で、本震の約6秒前の小破壊(伊豆大島と伊豆半島の中間付近の海底)から西に震源断層面が進行し、陸地では西北西に進行して本震(主破壊)となる第2地震が発生した。第2地震の位置は、伊豆半島内陸部の稲取岬西方3-4km付近とする解析結果がある。この主破壊を生じた稲取付近には地表地震断層が出現した。断層の走方向は西北西であった。この地震の震源断層は後に稲取断層と命名された。

伊豆大島近海地震の地表地震断層で裂けた杉の木(『地震の科学』より)


大室山と小室山

 さらに北上し、城ヶ崎海岸から西へ向かう。日が暮れてきたが何とか大室山の形が確認できた。大室山と同じすり鉢を伏せた形をした小型の小室山も観光地になっていて、大室山から北北東の方向へ行った海岸に近い場所にある。伊豆半島の火山群は単成火山群と言われる。これはかなり珍しい火山の形態で、一度噴火すると同じ所からは噴火しないという独特の性質の火山群である。日本列島ではこの伊豆半島と山口県の阿武火山群、長崎県の福江火山群しか知られていない。
 そこから伊東市へ向かう。伊東市にも地震が起こる。伊豆半島東方沖地震は、2006年(平成18年)4月21日午前2時50分に、伊豆半島東方沖(静岡県伊東市富戸沖)を震源として発生したM5.8 の地震で、この地震に伴い気象庁が発表する緊急地震速報が、予測震度を最大震度7として情報を出した。実際に観測された震度を大きく上回る震度で発表された。2006年1月頃からM1.0前後の微弱な地震活動が観測されていたが、同4月17日頃から顕著な有感地震が発生するようになり、4月21日に最大規模の本地震が発生した。4月30日には M4.5、5月2日に M5.1 等の地震も発生している。この地震の震源断層は、南北に約4km×幅約6kmで、東側に75度傾斜する左横ずれ断層であり、平均すべり量は約0.7mと分析されている。

初島

 伊豆半島に人が住むようになって初めての噴火が1989年に発生した。1989年6月に初島近くの伊東市沖では群発地震が観測され、7月9日にはM5.5の地震があった。この頃には、伊東市周辺の井戸の水位や温泉の湧出量、地表面の変位が観測されている。7月11日からは火山性微動が観測され、気象庁は噴火の危険性が高いと発表、伊東市内には伊豆東部火山群が広範囲に分布しているので、どこで噴火がおきてもおかしくないと報道され、伊東市民がパニック状態に陥る中、7月13日18時33分に海底噴火が発生、翌月末まで活動を続けた。その後、水面下81mの海底で火口の直径200mの火山が形成されていることが確認された。噴火のメカニズムは周囲の火山同様、海底堆積層への玄武岩質マグマの貫入によるマグマ水蒸気爆発と考えられている。7月9日に発生した地震により、伊東市宇佐美地区を中心に家具の下敷きなどにより21人が軽傷を負ったほか、家屋の損壊や屋根瓦の落下、がけ崩れや道路の損壊などの災害があった。

 熱海を過ぎて神奈川県に入り湯河原に着いた。マンション型のホテルで自炊である。あらかじめお願いしていた地元の橘さんが高橋水産で買ってきて預けておいてくれた烏賊と飛魚の干物と烏賊の塩辛、道の駅で調達した材料、持ち込みの新米などを料理して食事をしながら、参加者の皆さんが登場する映像をみんなで見た。麗華さんはプロスキーヤーで、林の中をスキーで雪を散らしながら滑降する。香代さんは女優で出演した場面を見る。きょんちゃんは、わたらせ渓谷鐵道「わ鐵のわっしー」をデザインした動画を紹介する。

 旅行の3日目は神奈川県の西南部真鶴半島である。真鶴駅に現地の方が二人案内に来てくれて合流する。一人は橘絵美さんで、真鶴の「お林」の近くに住み、地場産の藍栽培に挑戦している芸術家である。もう一人は、やはり地元に住む舘山ひとみさんでカメラを構えている。二人とも真鶴半島に詳しい。「お林」へ行って、すだ椎の林を見る。椎の実は虫食いの物だけが落ちていてきれいな穴が開いていた。あと1か月もすれば熟れて美味しい椎の実が食べられる。樟(くすのき)とすだ椎の樹冠を見上げると、樹冠の周りの隙間から青空が見える「クラウン・シャイネス」の現象が観察される。この現象は樹冠、あるいは林冠で観察される。

 森にはさまざまな形態があるが、いずれにせよ森があると必ずその上層部に同化組織の集中する層がある。これを林冠という。個々の樹木については樹冠という。樹冠生態系と言う表現も使われる。光合成を行う部分が一般には葉であるが、それが広がって光を受ければ、当然その下側では光が少なくなる。植物は高く伸びて、上に葉を広げる。森林では高木層の木が一番上に伸び、広く葉を広げる。森林内には、高木層の下になる高さの木もあるが、それらはあまり枝葉を広げない。森林全体で見れば、一番上の面に枝と葉が集中した層があることになる。これが林冠である。林冠部は見えにくいが、森林の構造上、最も光合成、物質生産が盛んに行われている層である。海岸林では樹高が揃い、林冠は非常に滑らかな外見をなしている。虫たちも林冠に集まっているはずである。

 林冠部には、密集した木々の葉が重ならずに空が割れているように見える現象がある。「クラウン・シャイネス」と呼ばれているが、日本語では「樹冠の遠慮」と訳されている。熱帯地域に多く見られるフタバガキ科の樹木が同時期に成長した際によく見られる現象で、1920年代から科学者により議論されているが、その仕組みは十分には分かっていない。風で揺れて枝の先端が傷つかないようにしているとか、木の成長の末端が敏感で遠慮するからだとか、いろいろ考えられている。そういえば、京都の平安神宮の紅枝垂を見せてもらったとき、宮司が枝の先が地面に着きそうになると伸びるのが止まると教えてくれたことを思い出した。また、虫を隣の木に移動させないための知恵だという考えもある。

 東マレーシアのランビルの森には、京都大学などが作った林冠の調査をするための大規模な施設がある。そのモデルを京都大学総合博物館の中で見ることができる。館内に森を再現し、そこに観察用の橋をそっくりに作ってある。自然史展示の中でも人気の高い大規模なジオラマ「ランビルの森」で、熱帯雨林の調査を行うのに使っている「ウォークウェイシステム」を模したものであり、普段は見るだけだが、ときどきそれを実際に渡ることができる時間帯を設けている。

真鶴半島のお林で見られるクラウン・シャイネス現象



 真鶴の「お林」は、魚つき保安林である。江戸時代、明暦の大火により木材が大量に必要になったとき、幕命により小田原藩に割り当てられた15万本の松苗が、萱原だった真鶴半島に植林された。明治維新後には、皇室御料林として一般の人は立ち入ることはできず、松林は見回り人により大切に保護されてきた。明治37年、森林法に基づく「魚つき保安林」に指定され、真鶴町漁業を支える大きな役割を担っている。昭和22年、御料林は国有林となり、昭和27年には真鶴町に払い下げられ、松だけではなく樟、すだ椎などの巨木が生い茂る混交林となり、真鶴町の神聖なる場所として大切に守られている。

 真鶴港は小さな港町であるが、水揚げされる魚の種類は約200種で、3月から5月にかけては鰺、鯖、5月の連休の頃は、あおり烏賊、秋にはかます、いなだ、わらさが大量に漁獲される。昼に食事だけでも利用できる旅館や民宿、魚料理店が多くある。この日は、港町の洋食レストラン「honohono」を予約してもらっていた。私はパスタとデザートのプディングをいただいた。素晴らしい昼食で、別の席で食事をされていた、橘さんの夫である芸術家の橘智哉さんにご挨拶した。橘智哉さんは東京藝術大学で鍛金を学んだ方で、建物の装飾の製作、ホテルを飾るオブジェなどで活躍する。銀座4丁目のミキモトのビルにある桜の木を私も知っている。

筆者の向かいが橘さん、筆者の右側が舘山さん

橘智哉さんと


真鶴の高橋水産の干物

 そのレストランから近い海岸の高橋水産に寄って、家族に干物と烏賊の塩辛を送った。自分の持ち帰り分は昨夜食べて美味しかった飛魚と鰺の干物と烏賊の塩辛を買った。そこで皆さんと別れて、一路静岡市内に帰り、夕方は飛魚を焼いて食べた。疲れたが収穫の多い3日間であった。
尾池和夫



参考文献
静岡県教育委員会:静岡県地震予知観測学習モデル校調査年報
地震学会編 『地震の科学』(1979年)


参考URL
火雷神社 | 伊豆半島ジオパーク
https://izugeopark.org/geosites/karaijinja/

伊豆半島ジオパークミュージアム ジオリア
https://izugeopark.org/georia/

松崎町の御宿しんしま
https://shinshima.com/

今日のまつざき Facebook
https://www.facebook.com/town.matsuzaki/?locale=ja_JP

小山真人「生きている伊豆の大地(10)活断層の国」
https://sakuya.vulcania.jp/koyama/public_html/Izu/Izushin/daichi/daichi108.html

真鶴半島 魚つき保安林「お林」/真鶴町
https://www.town.manazuru.kanagawa.jp/soshiki/sangyoukankou/kanko/1444.html

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